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1961年9月15日、その日大阪は、後に室戸台風2号と呼ばれることになる超大型の台風によって、家の瓦は紙のように舞い、電信柱は雑草のようになぎ倒され、天変地異を思わせる災害に見舞われた日だった。そんな日に僕は、大阪市港区という下町で長男として産声を上げた。

当時住んでいた家というのは文化住宅と言って、大阪独特の呼び方かもしれないが、長屋続きの木造でそれはそれは汚い借家住まい・・・優雅にクラシック音楽がいつも鳴り響いている生活・・・とは全く正反対の貧しい一家だった。

そんな環境で誰が、僕がこれからピアノを習い、音楽大学を2つも通い、そして海外でも指揮者として活動していくようになっていくだろうなんて思ったことだろう。

しかも僕は未熟児として生まれ、幼少の頃は当たり前のようによく40度以上の熱を出し、その度に真夜中に救急車で病院に運ばれる・・なんてことは日常茶飯事だった。

そのような弱い身体だったからこそ、両親にしてみれば、「何か人より優れたものを身に付けさせないといけない!」と思ったのだろうか。。。
しかしその手段が音楽になるとは、まだ誰も知る由がなかったのだ。。。

しかし僕がたしか3歳ごろ、港区から西成区の岸ノ里のマンションに引っ越したことが僕の運命を決定づけることになった。
僕の家族はちょうど2階に住んでいたが、その一階上に住んでいた方が当時としては本当にめずらしいグランドピアノを持っていたのだ。時々奥様が弾かれるピアノの音色に磁石のように吸い付けられ、よくお邪魔してはピアノで遊ばせてもらうことになった。
そのあとのいきさつはよくわからないけど、気がついていたら1オクターブちょっとしかない小さなおもちゃのピアノを与えられていて、
その奥様にレッスンしてもらっていた。4歳の時のことである。しかしこの奥様というのは音大で専門教育を受けた方ではなく、ただ単に趣味でピアノを弾かれている方だった。このことが僕のピアノ上達の思わぬ遠回りをしてしまい、「やはり習い事は最初にしっかりした先生に師事することが大切である!」と後日、母は痛感することになる。

さて父親は・・・というと、音楽に関してはほとんど興味がなかったようだ。なにせ僕をプロ野球選手にして読売に入団させようと考えていたようだ。今から考えると笑ってしまうことだが、やはり当時の事を考えると・・・・
男の子は外で元気よく遊ぶもの。ピアノを習うのは女の子がやることだ・・・という観念が主流だったので仕方がなかったかもしれない。
確かにその時ピアノを弾くことには喜びを感じていたが、同時にそれを友達に知られるのは恥ずかしいという感情を抱いていたのをはっきりと覚えている。
しかし母が猛烈に説得したのだろうか。5歳の誕生日のときだった。父親がいきなり本物のピアノを買ってくれたのだ!
もちろんアップライトピアノだが・・・
しかし当時のお金で20万円!の代物、(当時の大学出の公務員の初任給は約3万円の時代)その時の心境は残念ながら今は亡き父に聞くすべはないが、大変な決断だっただろう。しかしその時に父が言った言葉だけはしっかりと思えている。「どうせやるなら最後までやり通せ!」この一言は今でも僕にとって、人生というシンフォニーの雄大な序奏のように鳴り響いている。
そしてまだまだ漠然とだけど、この頃から芽生えていたのかも知れない。
僕の頭の中に、「将来は音楽を仕事にしていくんだ・・・」・・・と。


とはいっても、最初から指揮者という職業になりたい・・という気持ちが固まったわけではない。
実は一番最初になりたいと思った職業は、幼稚園のお小遣いさんだった。
毎日朝の朝礼の音楽のレコード(たぶんソノシートのような薄いものだったと思う)を毎日かけられるからだ。
家に帰ってきてもソノシートのレコードプレイヤーは当時僕の一番の玩具だったと思う。
ピアノのレッスンはというと・・・
いやレッスンというよりお遊びと言ったほうがいいだろう。
一階上に住んでいらっしゃる奥様に結構甘やかされながら好き勝手に弾かせてもらったと思う。
一応バイエルはやっていたようだが、ほとんど基礎という基礎は教えてもらうことはなかった。

しかしそんなのんびりムードも、父親の前だけは別だった。
父親はモータープールの管理人をしていたので、家に帰ってくるのは2週間に一度あるかないかくらいだったと思う。
なので父親が帰ってくると、必ずその時習っている曲を聴いてもらうのが我が家のイヴェントだった。
ちゃんと弾けていなかったら猛烈に怒られたのを覚えている。
でも普段、ぬるま湯のようなお稽古をしているのだからはっきり言って上達するわけがないのである。

そういうこともあってか素人ながら両親も「これではまずい!」と思ったのだろう。
その後数人の先生を経て、母親の知り合いから相愛女子大学(現:相愛大学)の山本瑛子先生を紹介していただいてから、僕のピアノレッスンの様相が豹変する。

山本先生のお宅に初めてレッスンで伺ったとき、僕のピアノを聴かれた先生は、まるで末期癌の患者を持つ家族に宣告するような口調でおっしゃったことを母は覚えている。「とりあえずやれるだけのことはやってみます。でもそれでモノにならなかったら諦めて下さい!」
今から考えたら、ピアノを弾くのに際して一番大切な手のフォームや指使いは滅茶苦茶!しかも楽譜の読み方など全くと言ってよいほど教わっていなかったのだ。2年間でトコトン染み付いてしまった悪い癖!
にもかかわらず山本先生は、ちょうど僕と同じ年齢のお嬢さんがいらっしゃったこともあり、とっても丁寧に根気よく、そして熱心に教えて下さった。その時の先生の立場を想像すれば、あたかもダイオキシンに汚染されてしまった土壌をもとの清浄な土地に戻すがごとく困難で根気のいる作業だっただろうと、本当に頭が下がる思いで感謝に尽きない。

また聴音の力をつけるために山本先生の勧めで入室した「相愛女子大学付属子供のための音楽教室」でのオリエンテーションでは、
「今日入られた皆さんが半年後に全員残っているとは思っていませんし望んでもおりません。ついてこれなくなった人はどうぞ遠慮なく辞めて下さい!」と、これまた強烈な訓示が教室側よりあったが、その時すでに母は覚悟を決めていたのだろう。
父親の一言、「どうせやるなら最後までやり通せ!」の重みを母も感じたことと思う。
さあここから『巨人の星』のピアノ版ともいうべき?地獄としか思えないような猛特訓が開始されたのだ。


さてここで話題を変えて、僕は当時どんな子供だったのか・・・ということを
話してみたいと思う。

外見はというと・・・
体格は痩せていたが背だけは高かった。
視力は悪く近視と乱視が混ざっており、小学校入学当初からめがねをかけていた。
当時はめがねをかけている子供は少なかったので、
どうも秀才に見えたらしく(爆)それだけで僕に好意を寄せていた女の子もいたらしいが、
全く発展はしなかった(爆)

小学1年生の時、親子面談で先生が「遠藤君はいつも目をかっちり開けて、先生の話をよく聞いてくれているように
見えるんやけど、実は全く”うわのそら”やったということがわかったわ!」とおっしゃったことを
母はしっかり覚えている。つまり、集中力が全然なかったようである。
なので学業成績も全く振るわなかった。
ないのは集中力だけでなく、体力もだった。体育の時間は、当にコンプレックスを堪能する時間だった(笑)
(小学3年生から2年間ほど、週2回のYMCAの体操教室に通わされることとなる。。。)

また「ピアノを弾くのにどうして?」と思われるかもしれないが、
手先が大変不器用で、靴下やシャツの裏表をひっくり返すことができなかった。
絵画教室も少し通わせてもらったが、全然だめだったし興味も続かなかった。

もう一つ覚えているのは、昆虫を含めた虫全般が大の苦手というか
はっきり言ってかなり怯えていた。
友達がカブトムシを見せてくれようというものなら、もう失神モノだった(汗)

まだまだある・・・・
補助車なしで自転車に乗れるようになったのも、初めてプールの水に
顔をつける事が出来たのも、なんと小学4年生になってからだ。
しかし紐靴のひもは、6年生になっても結べなかった(爆)
いじめっ子からすれば、こんなにいじめ甲斐のある子供もいないだろう(笑)

今でもしっかり覚えているのは、あのひっつき虫(オオオナモミという植物)を
本当に虫だと思い込んでいた!
よく友達にからかわれてランドセルにひっつき虫をくっつけられ、
大泣きして家に帰ったことも覚えている。

しかし唯一、毎週土曜日の午後に通っていた「相愛女子大学付属子供のための音楽教室」では
仲の良い友達にも恵まれ、水を得た魚のように楽しく過ごしていたようだ。
そこでは三種類のソルフェージュ、(和音聴音、旋律聴音、視唱)の授業を受けていた。

いつも母に連れられて通っていたのだが、
帰り道の地下鉄御堂筋線の本町駅の地下道にある果物屋さんで
フレッシュジュースを飲んで帰るのが恒例となっていた。
たしか回数券を持っていたことを覚えている。
さらに機嫌がいいと、なんばの高島屋の地下の惣菜コーナーで売っていた、
「豚肉のスタミナ焼き」を買って帰ったこともある。
小学1年生の子供にとっては、このような些細な事でもイヴェントのように感じて嬉しいものだ。

またそこで出来た友達家族と、よく映画を見に行ったり遠足に出かけたりもした。

結局中学に入るまで通うことになるのだが、
授業が大変だったことよりも楽しいことの方をよく覚えている。

さて学校生活の方は、相変わらず冴えない毎日だった。
ピアノを習っていることについても、「女が習うようなものを習いやがって、男の腐ったような奴や!」
とよく罵られた。
このような事は、小学2年生の秋に引越しした住吉区の住吉小学校でも同じことだった。

しかしここで、
「僕は音楽の道に進むのがいいかもしれない!。。。ていうか僕ってひょっとして天才かも!!!」
と感じる、鳥肌の立つような大きな出来事が遂に起こるのである!


小学校3年生のある日、算数の授業中にそれは起こった!
相変わらずただボ~~っとしていたのだが、突然頭の中がどうしようもないメロディーが駆け巡ったのだ。
僕は叫びたい気持ちだった。
「いったい何が起こったんだ?!このメロディーはなんだ?!早く書き留めておかないと!!」
もう無我夢中で算数のノートに階名で書き始めた。
「み、ふぁみれ(♯)み、ふぁ~みみ、ふぁみどら、らそ(♯)そ(♯)・・・・」

学校から帰ると真っ先にピアノに向かい、そのメロディーを弾いてみる。
そしてその曲は、当時流行っていた「黒猫のタンゴ」という曲と大変よく似ていた(爆)

でも僕はその時本当に思った。「俺ってひょっとして天才???」

この日は僕にとって衝撃的な一日であったことは間違いない!
それは僕がうまれて初めて作曲した日だったのだ!!

その後ピアノを弾くということ以外に音楽の楽しみを覚えた僕は、
小学校6年生までの間にピアノ曲小品集を作曲した。

ピアノ曲第1番イ短調 「初めてなんです!」
ピアノ曲第2番イ短調 「絶望」
ピアノ曲第3番イ短調 「あやつり人形の踊り」
ピアノ曲第4番変イ長調「将来の夢・希望」
ピアノ曲第5番ハ長調 「平和のマーチ」(変奏曲形式による)
ピアノ変奏曲


”ピアノ曲第○番”・・・という言い回しが笑えるが・・・(笑)

そして中学1年になるといきなり交響曲第1番の作曲に取り掛かることとなるのだが、
その話は後日にとっておこう。

さて、音楽の授業ではこんなショックなこともあった。
南米の、おそらく民俗音楽だったと思うが、レコード鑑賞した時のことである。
その感想文を書いて提出するということになり・・・・

普通の子供だったら、打楽器が中心でリズミックなラテン音楽を聴いたら、
「踊りたくなった」とか「太鼓のリズムが面白かった」等々の感想になるだろう。
ところが僕は感じたままの感想だった。

一言、『コーヒーの味がする』と書いた。

すると先生からは何のコメントもなく、ただ赤の添削ペンで「?」とだけあったのだ。
「僕が感じたことは間違っていたのか????」と、ものすごく自信喪失した。


さてピアノのレッスンはその後も、かなり厳しいものだった。

レッスンの当日、家から最寄の駅までは1分の距離だったので、母親には出かける寸前まで練習させられた。
本当にピアノの練習が大嫌いだったので、
母が少し目を離した隙に柱時計の針を5分進めたりするなど、かすかな抵抗をよく試みたものだ。
もちろんレッスンには母も付いて来て、先生のレッスンを録音したり、注意をノートに書取っていた。
今から思えば感謝してもし尽くせないのだが、その当時は感謝どころか行為そのものが拷問に思えた。

当時は歌謡曲が大好きで、テレビなどで流れるメロディーを耳でコピーして、
それを即興でピアノで弾いたりして遊んだりした。
”チェルニー”より「桜田淳子」、”バッハ”より「フィンガー5」だった(笑)
こういう時に音楽教室で鍛えた耳が大変役に立った。
しかし残念なことに、これも母親に見つかると雷鳴の如く怒られるのだった。
練習をサボっているということで・・・・・・・・・

そのような状況の中で起こったある日のレッスンのこと。その日のレッスンは最悪の出来だったので、
終わった瞬間に「これは大変なことになる!」と感じた僕は、先生の家を出るや否や本能的にダーッ!!と
母親から逃げ出すように駆け出した。でも実際問題、逃げる場所なんてない。
結局帰るべき家に、電車では20分くらいのところを、4時間以上かけてトボトボ帰っていった。
どんな厳しい言葉がとんでくるのか、ドツカれる(殴られる)のではないか・・・
レッスンは大嫌いだったにも関わらず、もうピアノは習わせてもらえないのではないか・・・
頭の中でいろんな想定をしながら、恐る恐る家の前に立った。

なんと家の鍵は開いているではないか!

そーっと家を上がると、台所で母親が僕の大好きなお寿司を出前でとってくれていて、
泣きながら待っていてくれていたのだ。母は一言だけ言った。

「これは次のレッスンの前祝いよ!さあ、食べなさい!!」

今から思うと、おそらく母は専門的な知識がないゆえ、今まで良い先生を選ぶことが出来ず、
息子に辛い思いと、無駄に遠回りをさせてしまった悔しさ、そしてやっとの思いで
良い先生に巡り合ったのだからなんとか早く上達して欲しい・・・などという
溢れんばかりの愛情が過酷とも言える厳しい練習を強いることになったのだろう。

しかしこの事件は、僕としては母親の気持ちを充分に感じることが出来た忘れられない出来事となった。

しかし、このような子供心を少しは揺さぶったであろう感動する出来事が
あったにせよ、だからと言ってその日から改心して一生懸命にピアノを練習したわけではない。
ところがその後、我が家を根底から揺るがす出来事が起こったのである。
父の他界である。小学4年生の時であった。

数年前から入退院を繰り返していたので、体調が悪いらしいということはわかっていたのだが、
日頃から毎日父に会うことがなかったのと、
子供であった自分には状況を感じ取ることは不可能だった。
そして病名が食道癌であるということも・・・

亡くなる数ヶ月前くらいからは毎回、
母は「パパに早く良くなってもらうための特別スープなのよ」と言っていたが、
うすくち醤油をお湯でうすめただけのものを持ってお見舞いに行き、
辛うじて栄養補給を摂らせているという具合だった。
その頃はすでに食べ物は一切、何も受け付けることが出来なかったようだ。

病院から死を知らせた突然の電話に、母は大泣きに崩れたことだけは覚えている。

後で聞いた話だが、その時僕も呆然と座り込んでしまい号泣したとのことである。
しかし僕は全然そのことは記憶していない。

この日を境に我が家は母子家庭となり生活は一変する。
僕を普通に学校に行かせている程度なら、ここまでは苦労しなかったであろう。
しかし毎週土曜日の音楽教室やピアノのレッスン代を捻出させるため、
梅田のジャズバー(結構大きなステージがあった)のレジ係として夜から朝まで働き、
帰ってきて少し仮眠をして昼間はまた別の仕事に出かけ、そして夜はまたジャズバー・・・
寝る間を惜しんで僕のために働いてくれたのだ。

これも今から思えば感謝しても尽くせないのだが、
当時はそういう感謝より、むしろ父を亡くした寂しさと、それに輪をかけて母すらも自分から遠ざかっていく・・・
そういう孤独感の方が大きかったと思う。母とは生活リズムがすれ違う日々。
それでもピアノのレッスンの時には、昼間の仕事を休んででも付いて来てくれた。
しかも少しでもグランドピアノで練習したほうが良いだろうということで、
昼間に閉店中のジャズバーのステージにあったグランドピアノを、
オーナーに頼んで使わせてもらってからレッスンに行ったこともよくあった。
当時はもちろん、感謝どころかいい迷惑だったのだが・・・(笑)

夕食は母が家の向いの定食屋さんに月額で支払って出前を頼んでいたので、
毎日夕方6時ごろにいつも持って来てくれるのだが、
いくら温かい食事を持ってきてくれても、決して僕の心は温かくならなかった。

しかし一つだけ良いことがあった。
それは父が生きていた頃に比べて、ピアノを練習している時に母がいることが少なくなったので、
ピアノで大好きな歌謡曲を弾いて遊ぶ時間が圧倒的に増えたことだった。
まさしく ”至福のとき”だった。

ところが小学5年生のある日、
今度はピアノを続けること自体が困難かと思わせるような大事件が起こるのである。


おもわぬ敵は今までとってもいいお付き合いをしていた隣人だった。
父が亡くなり母子家庭になったとたん手のひらを返したような態度を取るようになり、
僕がピアノの練習をしている時は、となりから「どんどんどん!!!!」と壁を叩く音、
それから演歌のレコードをヴォリュームいっぱいの音量でかけてくる。
あまりにも突然の出来事だったので、5年生には一体どういうことになったのかしばらく理解できなかった。

日曜日の時など、よく母親が泣きながら「ピアノを練習させてくれ」と頼んだこともしばしばあった。
母子家庭というものはこんなに脆く弱いものなのかということを、いやというほど痛感した。

もうピアノは弾けないのか???
ピアノを続けるには、家を出るしかないのかとまで思っていた。

そして母が下した決断は、防音室を買うことだった。当時の金額で20万円以上はしたと思う。
ほんとにほんとに ”母の人生すべては僕の音楽のため” だった。

しかし防音室といっても部屋の中にさらにカプセルを入れた感じのようなもので、
中に入ると圧迫感というか、気圧が変わったような感触を味わった。
一曲ざっと弾くと部屋の中が暑苦しくなり、その中で集中するのは困難を極めた。

隣人との一件はひとまず落ち着いたが、その後僕は隣の夫婦を見ると、
いつも憎悪に燃えた敵対心むき出しの表情を意識的にしていた。
そしてそれは僕が指揮者を目指して上京する時までずっとずっと続いた。
絶対に忘れることはなかった。

本当にそこまでして母親は音楽を続けさせてくれたのにもかかわらず・・・・
しかし!!僕はというと・・・・

やはり歌謡曲が大好きだった。ピアノの練習というより、好きなアイドルの曲を、音を拾っては遊んで弾いて楽しんでいた。
あと音楽以外で覚えていることは、おばあちゃんの存在だろう。
皆そうだと思うが、おばあちゃんというのは孫には優しいものだ。
母がいくら抑制しても、欲しいものは買ってくれる。
デパート屋上の遊び場にしばしば連れて行ってもらったが、
母が居ないときなどは、パチンコに連れて行ってもらいよく打たせてもらった。
そして地面に落ちているパチンコ玉を拾っておばあちゃんに届けたりするのが僕の仕事だった。

というわけでギャンブルは小学校ですでに卒業した(笑)
いや、そうじゃないかもしれない。指揮者になろうということ自体、ものすごいギャンブルだ!(爆)

夜の大人向けのテレビ番組もよく一緒に見た。
「ザ・ガードマン」「キーハンター」といった人気ドラマはいいとして、
特に僕のお気に入りは「11PM」だった!(爆)
お気に入りといっても、アダルトな内容はわかるわけがないので、
もっぱらテーマ音楽とエンディング音楽を口ずさんでいた。

自分で言うのもおかしいが、ピアノが弾ける事を除けば、本当に寂しがりやの一人っ子っていう
感じだったと思う。
そして如何にピアノの練習が嫌いでも音楽を離れることが無かったのは、
音楽・・・というものが自分にとっての天職と感じていたからではなかったか。

さて、そろそろ皆さんお待ちかねだろう。
こんな歌謡曲少年がどのようにしてクラシックの、しかも指揮者に憧れだしたのかという話。

次回からぼちぼちと語ってみよう。


その時、歴史が動いた!!!(というのはかなりオーバーだが(笑))

僕にとって指揮者への憧れ・・・その第一歩、というよりまず、オーケストラへの憧れ・・・その第一歩は、
意外なことに当時アイドルとして人気を博していた桜田淳子だった!
その日、僕はいつものようにラジオに耳を傾け、彼女のヒット曲、「はじめての出来事」という歌を、
いつものようにラジオで聴いていた。
ところが普段なら歌だけにしか気を留めていないのに、その日は歌よりも伴奏しているオーケストラの動きが気になり始めたのだ。
当時の歌謡曲は今と違って、エレキ以外はほとんどがアコースティック楽器で演奏されていて、
結構聴き応えあるものが多かったと思う。

するとある事に気がついた!

最初のメロディーと、その後に繰り返されるほとんど同じメロディーの全く同じ箇所で、歌に対して合いの手を入れる楽器が、
お琴のようなもの、(歌詞でいうと「泣き出して」の直後)
そして次ではトランペットであることに!!!(歌詞でいうと「世の中が」の直後)
(ちなみに今回の投稿に先立ってネットで試聴してみたら、”お琴のようなもの”は、なんと弦楽器のピチカートだった!
改めて当時の歌謡曲って、しっかり出来ていると思った)

http://musico.jp/contents/contents_index.aspx?id=tX11N

この発見はまさに、ニュートンやガリレオの発見に匹敵するくらいに僕の中ではショッキングな事だった!

また他にも、歌に対してオブリガートで動いているフルートなどの音も気になり始めた。

「はじめての出来事」は、まさに僕にとっても『はじめての出来事』だったのだ!!

それからというもの、どんな歌謡曲を聴いても歌はそっちのけとなり、もっぱらバックの音の動きに夢中になっていった。
それと同時にメロディーの構成などにも敏感になっていったと思う。

特に沢田研二の「追憶」では、最初短調で始まったのが、途中で光が差したような長調に転調し、
そしてまた絶望感に浸るかのような短調に戻る。。。。
しかし最後はまた長調に転じて、見事にフェイドアウトして終る。。
音楽も文章と一緒で、ちゃんと流れというものがあるんだなあ。。。と鳥肌が立つほど感動したのを覚えている。

そしてもうひとつ大事なことは、、、
この時はじめてピアノ以外の楽器、特にトランペットとフルートに大変興味を抱くようになっていったのだ。

またさらには、当時の人気アニメ「海のトリトン」のテーマソングで活躍する、
ティンパニとホルンのあまりのかっこよさに失神寸前になるほど?(笑)シビれた。。

http://www.tsutaya.co.jp/item/music/view_m.zhtml?pdid=20224205

そして、そのあたりから無意識のうちに手を動かしていたかもしれない。もちろん指揮をしていたかも・・・
という意味である。

そしてもう一つ、実はこの大事件をきっかけに、日常いやいやながら練習していたピアノに対する考え方もちょっとだけ変化が始まった。
というのは、歌謡曲を聴いている時だけでなく、自分がピアノを弾いている時も、常にオーケストラのイメージを考えながら弾くようになったのだ。

例えば、あまり好きな曲がなかったクラシックのピアノ曲の中ではなぜか気に入っていた、モーツァルトのピアノソナタイ短調K.310の第一楽章の、5小節目の3拍目裏から右手の3度で動く哀愁に満ちたフレーズは2本のオーボエ、
第二テーマ直前のト長調になったところでソーソ~ソソーソー・・とファンファーレのような動きはトランペット、そして第二テーマに入って、1小節目アウフタクトからはフルート、2小節目はオーボエ、3小節目はクラリネット・・・といった感じである。
ちょうど音楽の授業でもオーケストラの楽器について話があったこともあり、この時期におそらく一般的なオーケストラの楽器とその音色は覚えていったのだと思う。

その頃、何の番組だったか、日本を代表するピアニストである中村紘子さんが、
「私が子供の時に習っていた先生は、どんな曲を弾かされても必ず『オーケストラの楽器だったら、このメロディーはどの楽器がいいか?』ということを、よく尋ねられた」
とおっしゃっていて、とても嬉しかったというか、若干優越感に浸ったことは覚えている(笑)
なぜなら名ピアニスト中村紘子さんですら先生に言われて気がついたのに、僕は自分で気がついたのだから!(笑)

こういう風にオーケストラの音色のイメージを常に意識して弾くと、なぜかピアノを弾くことが楽しくなってきたのだ。
もちろん歌謡曲をピアノを弾いて遊んでいる時も、常にバックのオーケストラの担当楽器をイメージして弾くようになった。
そしてこの頃より山本瑛子先生からも、「浩史君、最近音色が変わってきたね」と褒めていただいたことだけは覚えている。

でもさすがに先生に対して、「はじめての出来事」事件を話す勇気は無かった(笑)
なぜなら、その当時、僕は先生が、「クラシック音楽以外は音楽ではない!」と思われていると思ったからだ。

なぜかと言えば、ある日先生から案内されたピアノのリサイタルが、
当時人気のグループサウンズで、僕も大ファンだった"ザ・テンプターズ"のコンサートの日とぶつかっていて
僕は、「どうしても、ザ・テンプターズのコンサートに行きたい!」と一度懇願したことがあった。
しかし先生から、「そんなつまらないものよりピアノのリサイタルに行きなさい!」と諭され
仕方なくピアノのリサイタルに行かされたのだ。もちろん数分後には爆睡するのだが・・・(爆)

しかしその後、ザ・テンプターズの方は追加公演が決定したことを知り、僕は喜んで母と二人でコンサートを見に行った。

しかし!ここで大惨事が起こった・・・・

今までコンサートというと、クラシックのようにお客さんは静かに聴いているものだとばかり思っていた。
ところが、なんと客層は若い女性ばっかり・・・
しかも歌が聞えないほど、気勢や掛け声、その他悲鳴のようなものばかりしか聞えず、とても音楽を鑑賞する事とは、全然別世界の様相だったのだ。

そのうち一列前に座っていた女性の、絶叫しながら振り回していたタオルが、
悲劇なことに僕の顔面を直撃し、心身ともにノックアウトされてしまった。。。。。(爆)

※)『軌跡』第十話にして、初めてクラシックの作品が登場しました(爆)


ここで話を変えて、当時の友人関係について話してみよう。

自分で言うのも恥ずかしいけれど、結構僕は友人関係が持つようで、
その中の数人は、東京と大阪で離れ離れになっていても、今でも時々メールで近況などを知らせあったり、
仕事などで大阪に行くことがある時は、会って呑んだりと、付き合いが続いている。

小学校のクラスメートも、「ちびまる子ちゃん」(実は同年代!)のクラスのような、とても個性的な友達が多く、
中でも大川栄作と東海林太郎の大ファンという男子や、クラス1成績が良く、みんなから「シューベルト」というあだ名をつけられた
(本当に良く似ていた)男子とはなぜか話しが合い、よく遊んだ。
そういう変わり者?と話しが合うということは、実は自分も変わり者だったということか・・・(笑)

しかし当時は、学校から帰宅するとランドセルをホリ投げ、
すぐ野球をしたり、プラモデル屋さんに走ったり、ボウリング場へ通ったり、
塾といっても、公文かそろばん位だったので、たいてい生活リズムが皆一緒だったように思う。
その中で、僕はランドセルを置いたらすぐにピアノに向かわされていたので、
どうしてもマイノリティにならざるを得ない環境にあったように思う。そしてそれが原因でイジメに合う事もあった。

そしてそのいじめは、中学に上がった時に、爆発し、やがて自分の人生を変える大事件に発展するのだが・・・・・

また、ピアノのレッスンの方は、ぼちぼちという感じだったが、
相愛女子大学(当時)の附属音楽教室での聴音とソルフェージュの授業は、結構楽しくやっていたと思う。
母親同士が仲良くなったことから結成された、男子2人、女子2人の”仲良し4人組”に週一回会えるのはとても嬉しかったし、
季節ごとに映画や、ピクニックなども出かけた記憶がある。
また第四話でも書いたが、音楽教室の帰りに、地下鉄本町駅へつながる地下道にあったフルーツ屋さんで飲むジュース、
なんばの高島屋のデパ地下のお肉屋さんで買った、スタミナ焼きの美味しかったことは、今でも鮮明に覚えている。

これも後で触れることになるだろうが、この音楽教室でのトレーニングのお陰で、
ソルフェージュ力、読譜力が鍛えられ、音楽の道で生きている今、本当に宝物のように生きている。
当時にしてはかなり高い授業料だったと思うが、大変な中、よく通わせてもらったと心から感謝している。

学校の方は、母が働きに出ていて、帰ってきてもいつも一人だったが、
音楽への愛着のおかげで、非行に走ることもなく、帰ってくるといつもピアノで遊んでいた。

そんなこんなで、いよいよ中学生になっていった。


ついに中学生。元サッカー日本代表監督をされた岡ちゃんこと岡田武史さんと同じ出身校、大阪市立住吉中学に入学した。(ちなみに岡田元監督は5年先輩になる)

小学校卒業と同時に、相愛の音楽教室も卒業し、ピアノの先生は、大阪音楽大学の梅本俊和助教授(当時)に変わる。
僕のライフスタイルは学校と家の往復という単純な毎日となっていく。そして月3回土曜日の午後、片道2時間弱かけて、梅本先生の箕面のご自宅までレッスンに伺うのである。

以前にも書いたが、身体も弱く、勉強もあまりできなかった僕はずっといじめられっこ、またクラスの有力者に強引に誘われ少林寺拳法同好会にも入らされてしまった。
そしてとうとう登校拒否までしてしまうようになった。

しかし僕の場合は健全な登校拒否で、どこかに遊びに行ったり不良仲間に加わるような事はなく、「第九話」に書いた通り、相変わらずアイドルのレコードを楽しんで聴いていた。
もちろん歌手よりも、僕の関心はバックのオーケストラに向けられていたが。

母は一日中働いていて家にいることがなかったので、登校拒否をするには絶好のコンディションだった。


そしていよいよ僕の人生を決定づける大事件がやってきた。

クラシック音楽、そしてオーケストラと僕が、がっちりと握手をした瞬間だった。

ある時、テレビのCMでビゼーの「アルルの女第二組曲」の「メヌエット」を聞いたとき、フルートの澄んだ音色、この世のものと思えない、天から音符が降って降りてきたような、鳥肌が立つような感動を覚たのだ。
今でこそクラシック音楽がCMなどで使われることが多くなったが、その当時はかなり珍しかったと記憶している。
それからというもの、このCMが流れる度に、一種の金縛り状態になる日々が続いた。

しかし悲しいかな、CMを見ているだけでは、その曲のタイトルがわからない。そこでとりあえず、いつも買いに行く町のレコード屋に駆け込んでみた。
でも今まで歌謡曲の45回転のドーナツ盤レコードしか買わなかった少年が、いきなり「クラシックのこの曲名を教えてください!」と来たわけだから、街のレコード屋の主人も驚いた事だろう。(笑)もちろん主人も曲名は判らなかった。
(今だとYouTubeで簡単に検索出来るのだが・・・)

そして後日、やっと曲のタイトルが判明し、もう一度出直してレコード屋に走ったのだが、あいにく「アルルの女」は置いてなかった。
がっかりした僕に対し店の主人は「じゃ、今回はこの曲にしな!」と言って買わされたレコードが「ヴィヴァルディの四季」だった。

その後、「アルルの女」も手に入れることになるのだが、たまたま「四季」も「アルルの女」も当時グラモフォンレコードから出ていた”カラヤンベスト50”という、シリーズものだったせいもあり
僕の興味は、このシリーズを全部集める事に向けられることになった。

それと同時に、「なんとしてもフルートを習いたい!」と強く思うようになっていくのである。